D'ac

元銀行員。子育てられ中。

正義とは何か。

正義とはなにか?
この難しい問いに正面から向き合うほどの用意はない。けれど、終戦記念日ということで多くのブロガーが戦争について語るなかで、戦争からは多少距離を置きつつ、正義について語ってみたい。

  

一番分かりやすい正義の形。

私たちの身近にある正義というのは、アンパンマンが悪さをするバイキンマンに対して「あんぱーんち!」なんて食らわせるものが一番代表的かつ短絡的。
大人であれば、そこまで簡略化・単純化することもないのかな。

 

正義とは配分(公正)のことである。

あるべきものはあるべきところに。
不正は正されるように。偏った持ち分はあるべきところに戻すよう。

 

正義というものは配分(公正)のことを意味する。公正な配分。つまり適切な配分。
ただこれでは何にも答えたことにはなっていない。
次は、「何が公正なのか。何が適切な配分なのか」という問いに答えなければならないからだ。

 

かつて配分(公正)の中身は「目には目を。歯には歯を」だった。時代とところが変われば、「目には歯を。歯には牙を」だったかもしれない。そしてそれが正義だった。

 

配分の中身は、「各人に適切なものが与えられるように」であれば、何をどうすれば各人が適切な取り分を受けうるのか。その基準を選定しなければならない。
かつては、奴隷と主人の関係が合法的だった。その中でいれば、各人の配分は必然的に変わってくる。家長制のもとでは、父親や長男が多くを受け取る。これが正義だった。

 

そう正義の中身は、時代に大きく左右される。

 

裁判所のシンボル。

裁判所のシンボルは天秤。そう裁判所は正義を実行する場。
あんぱんちを食らわせるわけではない。各人に適切なものを適切に配分する場だ。だから、天秤が正義のシンボルとなる。


裁判というものは、悪人に制裁を食らわせる場ではない。適切な配分を行う場なのだ。
民事訴訟をみれば、分かりやすい。

 

 

適切な配分とは何かを考えるのは非常に難しい。

例えば、我が家で夫と私のお小遣いを考えるとする。いくらが適切な配分なのか。
夫が主たる労働をしていると考えれば、夫のお小遣いを多くとるのが適切となる。私の無報償の家事労働を評価するのであれば、私のお小遣いが上がるのが適切な配分となる。

 

ただ、家庭内では、「適切な配分」は簡単に成しえる。
その理由はただ一つ。そこに愛があるからだ。

 

 

正義のためには愛が必要。

正義を行使するためには、つまり、適切な配分を実行するためには愛が必要である。
愛というのは、甘酸っぱい恋愛感情なんかでは決してない。ただ、相手のために動く、その行動のことを指す。感情ではない。行動そのものが愛である。

 

適切な配分を行うためには、「相手のためになる」という愛が必要不可欠なのだ。憎しみで振りかざしたこぶしには「正義」という名はおおよそ似つかわしくない。

 

国のトップが「正義を行使する」という時、そこには相手への愛があるか。
適切な配分を行おうという思慮があるのか。それを問いたい。

 

ただ、単純に「悪をやっつける」なんて意味で正義を語らないでほしい。政治とは言葉である。言葉を疎かにすることから間違いが始まる。

 

正義とは何か。何が一体適切な配分と言えるのか。それを終戦記念日という日に考えてみたい。

 

以上。