D'ac

元銀行員。子育てられ中。

愛とは何か。

正義について語ったついでに愛についても語っておきたい。

 

先ほどの記事で私は

正義を行使するためには、つまり、適切な配分を実行するためには愛が必要である。


と書いた。

 

でも、よく考えてみるとこれは間違いだと気づく。


愛があれば、正義はいらない。


こちらが正しい。

 

愛があれば、適切な配分など考えるまでもないのだ。

ということで、今回は愛とはなんぞやについて定義を試みてみる。

 

愛とは何か。

正義とは何かでも触れたように、それは甘酸っぱい恋愛感情ではない。
人のために何かをなす、その行動こそが愛である。

 

甘酸っぱい恋愛感情、ある人を恋うる気持ちは、愛への助走にはなる。
ただ、恋=愛ではない。

 

どんなときに何をなすか。

ある人を好きだと言う。なんでもしてあげたいと願う。
この感情は実のところ、愛ではない。
自分がそうしたいからするのだ。そうすることが自分の幸せなのだ。

 

私は娘のためなら何でもしたいと思う。これは愛のように見せかけて、実は単なる好意から自発的に湧き出る感情である。

 

愛とは、実のところ、「ある人が自分が望まない状態にあるときに、それでもなお、その人のために何かをなしうる。」そういう状態を指す。

 

娘がお茶やごはんをぶちまける。全く言うことを聞かない。
あまつさえ、「ママ嫌い」なんてのたまう。

そんなときでも、彼女のためにご飯を用意し、お風呂に入れ、お菓子を準備し、オムツを替える。それが愛である。

 

娘が夜泣きをする。もう一週間くらいまともに寝ていない。辛い。そんな時でも、娘が眠れない夜には、抱きしめ、歌を歌い、夜を過ごす。
それが愛である。

 

私は親に嫌われていた。私の親は、私の性質・気質、もろもろのことを疎んだ。けれど、愛はあった。
親を疎ませるような性質のほとんどを兼ね備えた子どもだった私を両親は育てた。そこには、偉大なる関心と責任と愛があったと今なら分かる。

 

 

子どもを持つことの良い点。

子どもを持つことの良い点は、全くもって以上の1点に集約される。
愛しやすいのだ。

 

異性間の愛に至るまでの助走である恋愛感情がたびたび人を裏切るのに対して、親子間の愛は実に到達しやすい。

 

そして、人生とは人をどれだけ愛せたかに、幸福度がかかっていると思う。
だから、子どもを持つと到達しやすい。心残りがなくなりやすい。

 

子どもを持たないと、自分自身の理性や本能、情熱などで愛を得る必要がある。それは時にとても困難な作業になる。もちろん、それを実現している人は存在するし、それを既に実現しているから、子どもを持たないという選択をすることを否定するものではない。

 

私のような凡人には、一番簡単な愛に至る手段が子どもだったというだけである。

 

 

愛とは覚悟である。

愛、誰かのために何かをする、という行為は覚悟のうえになりたつ。その人の人生を引き受けようという大きな覚悟の上に。

 

この点を恋愛感情と混同していると選択を誤りやすい。
結婚をするとき、恋愛感情がベースになると、「この人のために何でもしてあげたいと思えるか」というところが重要な点になってくる。

 

恋愛感情ではなく、愛がベースとなると知っていれば、「この人のために何でもすると覚悟を決められるか」という点が重要になる。

 

愛を自然発生的なものだととらえると、いつまでもそこに至らず苦しむことになる。愛とは覚悟である。その人を自分自身の関心と責任でもって、何をしうるかを考えるということなのである。

 

恋愛感情の助走があるうちに、結婚にたどり着いたものは結婚してから試練が訪れるかもしれない。逆に、恋愛感情の助走が終わって、関係がいわゆるマンネリ化した時には、相手への覚悟が試されるのかもしれない。

 

 

以上。

 

 

正義の話と続いて、なんだか堅い話になってしまった・・・。

 

ちょっとあほなこと書かないとあかんねえ(´ω`*)
とりあえず、30歳のぷちこんぶが書いたことだし、また新しい発見とか経験で考え方は変わるかもしれない。

 

愛とか正義とか、アリストテレスを読みたいなあ・・・。

ニコマコス倫理学〈上〉 (岩波文庫)

 

愛と言えばこんな記事もあるよ。 

peticonbu.hatenablog.com