D'ac

元銀行員。子育てられ中。

鶏が先か。卵が先か。

10月に入ったので、幼稚園の見学会があちらこちらで行われている。私も娘を連れて、よいこらしょと参加してきた。私は学校と名のつくものが大嫌いだ。小学校も中学校も高校も。はたまた大学も嫌い。幼稚園も泣きながら通ったことは記憶にある。でもまあ、幼稚園はまあ大丈夫だろう、と考えたのだか、私は私の認識を訂正しなくはならない。

 

幼稚園に入り年長クラスを覗く。先生に言われたとおりに動く。急かされる。命令される。たしなめられる。同じように動く園児たち。となりと同じようにできず諭される少年。偉そうに話す先生。嫌な汗がドッと出た。そう、私はあの空気が嫌いだ。集団で何かをする。足並みをそろえる。

 

私はなぜか人と足並みが合わない。先生の話が聞けない。いや、聞こえないのだ。1対多の話がいつも右から左へと流れていく。何を言っているのか聞き取れない。

 

ブログでも書いたことがあるように、私は虐められた経験がある。
そう。だから私は学校が嫌いだ。あんなくだらないところに行く価値なんて微塵も見いだせない。
でも、どうやら逆なんじゃないか、と思い至る。

 

「虐められたから学校が嫌い」なんじゃなくって、「学校が嫌い」だから、虐められていた経験を殊更大きく取り上げているんじゃないだろうか。

 

昨日、「人って結局自分のことが好きだから、自己正当化しちゃうんだよね」なんて記事を書いたけれど、それってここにも当てはまるんじゃないだろうか。
「いじめ」なんて屈辱体験をいまだに大切に保管しているのは、結局のところ「私って学校とか集団とか馴染めないんだよね。だって、いじめられてたんだもん!」って言いたいからだけ、なんじゃないか、と。

 

ま、卵が先でも鶏が先でも、結局集団に馴染めない私の特性が変わらないんだから、別にどっちでもいいのかもしれないんだけどね。

 

 

さてさて、どんなに母親が学校嫌いでも娘にそれを察知されてはなりません。
娘に「学校は嫌なもの」という先入観を持たせても可哀想ですし、娘にとって集団の空気が私が感じたそれとはまったく違うものかもしれません。

 

集団生活ができなくても、学校に全く馴染めなくても、生きていくのに困ることはありませんが、まあ、馴染めたほうが、選択肢が多いということは事実なので。

 

だから、「お母さんは幼稚園が嫌いで嫌いで泣きながら通っていたのよ」なんて言葉はグッと堪えて、「幼稚園、楽しいよ~。来年が楽しみね!」なんて語りかけているというわけなのです。

 

以上。