愛犬を喪うのは、友人を喪うより悲しい。
能力があるところに義務は生じる。
そして、人が後悔するのはいつも、できたはずのことをやらなかったことに対してなんだよね、という趣旨のお話。
私は学生時代に飼っていた犬を亡くした。
それから数年たって、友人を亡くした。
もちろん、それぞれに悲しかったのだが、犬を喪った方が遥かに悲しかったし、尾を引いた。
その理由は簡単で、そんなに深い友人ではなかったとか、そんな理由ではない。
一言で理由を説明してしまうと、私が犬にしてやれたことは、私が友人にしてやれたことよりも遥かに大きかったから。
友人の世界の構成要素は多い。
学校、他の友人、彼氏、家族。色々な要素が彼女の世界だった。
翻って、犬。私の可愛い、可愛そうなワンコ。
彼女の世界は非常に限られていた。
その分、私が彼女にしてやれたことは多かったはずなのだ。
私は彼女を幸せにする能力があった。
能力がある。それはすなわち、そこに義務があることを意味する。
少なくとも私はそう思っている。
だから、私は彼女を幸せにしないといけなかった。
私は彼女の寿命を延ばすことさえできたはずなのだ。
彼女は私に彼女の人生をゆだねて、そこにいたわけで、私はその事実を喜んで受け入れていたはずなのだ。
私は彼女を幸せにできたか?
自信はない。
顔も見ずに学校に行ったあの日。
せめて「行ってきます」くらい言えばよかった。
そんな叶わない仮定の話を何度も繰り返して自分を責めた。
結局してやれなかった。だから、そこが私の能力の限界なのかもしれなかった。
そう言われるかもしれない。
でも、私はそんなことを何度も繰り返したくはない。
引き受けたものの重みを。その責任を。
ある力を使わずに後悔することはもう二度としたくない。
私は今、犬を飼ってはいない。
けれど、大切な家族がいる。
娘と夫。
娘は私を超えていくものだから、彼女を幸せにしようというのはおこがましいような気がする。
せいぜい、「ここに生まれてきて良かった」と思えるようにはしてやりたいし、自分ができるすべてを彼女に捧ぐつもりではいる。
けれども、夫くらいは幸せにできるんじゃないだろうか。
そう思っている。
いずれにしても、自分ができることを疎かにして後悔するようなことは二度としたくないのだ。
以上。