D'ac

元銀行員。現在:写真撮影・加工。金融ライター・翻訳。子育てられ中。

宗教勧誘と宗教的な感性と宗教との距離感。

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(こちらは、とっちらかった雑記です。)

今朝起きて、購読しているブログをチェックしていると、こんな記事があった。

 

onbullshit.hatenablog.com

宗教勧誘をいかに断るかについてまとめたもの。
宗教勧誘がいかに行われているかの考察つき。

 

そんなふうに観察したことがなかったので、なるほどなあ、と思ったのと、最近居留守ばかりだから在宅で勧誘されたことないなあ・・・なんて考えたりして。

 

それはそうと、最後に勧誘されたのはいつだったかと思い返せば、娘をベビーカーに乗せて散歩している時だった。
急に声をかけられる。
道でも訊かれるのかな? なんて思っていたら宗教勧誘だった。

 

私はよく道を訊かれる。
初めていくところで、私も迷っている時でも訊かれる。
だから、いつも道案内かと思っていると変な人につかまることもしばしば。
若いころは痴漢につかまったこともあった。
まあ、それはおいておいて。

 

宗教勧誘のおばさんは言った。
「これは宗教を超えたものなんです!!」
私は答えた。
「宗教に興味があるので、宗教を超えたものはちょっと興味ないです。本当に残念。」

おばさん
「あ、いや。でも・・・。」

「失礼します。」

 

なんだかんだ断る手段はあるものだと実感した瞬間。
それにしても押しが弱い人だった。
もし万一、「いや、宗教の一種ではあるんですけどね」なんて言われたら、宗教論を展開するか、キリスト教もしくはイスラム教の歴史について熱く語ってみようと思っていたのだが、結構すぐに引いていった。
まあ、そんなに詳しくはないんだけど。

 

宗教史については、知り合いの牧師さんに本を借りたままになっている。
勉強するつもりでいながら、なかなか時間が取れず今に至る。

 


私自身、宗教に関してまったく関心がないかと訊かれるとそんなことはないと思う。
むしろ、宗教的な感性は高いほうではないか。
例えば、「縁がある」。こんな言葉をよく使う。

 

結婚も縁のものよね。仕事も縁のものよね。
こんな風に感じる人は総じて宗教的な感性が高い。
ここ香川では宗教的な感性が高い人が多いように感じる。

 

宗教的な感性が高いことと、特定の宗派に属していることはまったくもって関係ない。

 

宗教的な信仰がある人を時折うらやましくも思う。
自分以外に信じられるものがある人は強いな、と思わされるから。

 

だから、私は宗教の話をする人は嫌いではない。
人に押し付けようとしている人は「お布施目的か? このやろう」と思うけれど、フラットな人の信仰体験というものは大変興味がある。
「それって論理的じゃないよ?」なんて野暮なことはもちろん言わない。
論理的だから信じる、というのは信じるの体をなさないから。
荒唐無稽でも、筋が通ってなくても、そこに成立するから、信仰なんだろう。

 

私は娘が生まれて、より宗教的になった。
娘を産むために私は存在して、そして、私が損なわれることがあるのであれば、そちらのほうが彼女にとってより良いからだと信じている。
それは私にとって寄りかかる杖のようなものだ。

 

ただ、その自分の信念に対して何らかの対価を支払う必要はないな、と考えている。
けれど、追い詰められたとき、本当につらい時には、高いお金を出してその杖を買いたくなるのかもしれない。
だから、そういう人たちを批判する気持ちには到底なれないのである。
(上の方で搾取している人たちは別)

 

以上。