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D'ac

元銀行員。現在:写真撮影・加工。金融ライター・翻訳。子育てられ中。

分かりやすい文章は誤解を生む? 分かりやすさと民主主義の関係。

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いつも読ませてもらっているブログで興味深いことが取り上げられてあったので、ちょっと取り上げてみたいと思う。

 


こちら。

onbullshit.hatenablog.com

内容としては、ネット上の文章が簡単になりすぎているということ。そして、その分かりやすい文章が誤読を引き起こしているということ。その原因は、「単純化」にあるのではないか、ということ。

 

onbullshitさんは、たぶんとてもまじめな方。私みたいに適当に生きていたんでは特に注意も払わないことによく気が付く人。同じようにWebライターをしていても、着眼点が違うというのはとても面白いね!

 

Webライターとしての実感。


OnbullshitさんはWebライターをやってみて、文章の簡略化(視覚的にも意味的にも)が行き過ぎているということに危惧を抱いている。

 

一方、私はそんなことなんて考えもしなかった。
確かに簡単に書くように要求されている。バカの私としては、難しいことなんて逆立ちしても出てこないので、「へへへ。任せとき」といったところだ。


それに、私はネット上に難しいことが書いてあったら、まず読まない。あんまり画面とにらめっこしたくないし、あんまり考えさせるような文章はネットからは拾わないようにしている。

 

文章が分かりやすくなっていることの原因とは?


これはこの原因を実は民主主義だと思っている。
どんな内容の文章でも、誰でも、私のようなおバカさんでもアクセスできる。これが民主主義の根幹だ。

 

ん? 文章の簡単さが民主主義につながるの?
この民主主義について考えるためには、歴史を紐解いてみる必要があるだろう。

 

文章にアクセス制限があった時代。


昔の文書を読むと、読み解くのに非常に苦労するようなものが存在する。
例えば、美濃部達吉の天皇機関説。(だったかな? ちょっと意識記憶が混濁しているので、知っている人いたら訂正プリーズ!!!)


こういった文書、つまり政府批判文書に関しては簡単に人に解読できないように書かれている。

 

どうしてか。読める仲間うちで解読することによって思想を広めていたため、簡単に誰でもアクセスできないようにしていたのだ。
こうして、文章に一定のアクセス制限がかかる。文書は誰にでもは開かれてはいない。読む人を選ぶのだ。

 

人を選ぶ文章。大学の存在。


これは結構最近、いやむしろ、現在でも通ずることがあるのかもしれない。

 

大学というのはエリート養成所。それは、一定のエリートにしかアクセスできない文章にアクセス許可を与える機関なのだ。
「一般人がアクセスしづらい文章にアクセス許可を与える」というのはどういうことだろうか。

 

「善意の第三者に対抗することができない。」


これ読んで、「あーはいはい」と分かった人は、法学部出身か、もしくは法律オタクか。はたまた紛争に巻き込まれた経験がある方に違いない。

 

ってか、もっと分かりやすく書けばいいと思わない?
「そのことについて知らないし、知らないことについて責任をかぶせることができない、第三者」とかさ。

 

でも、違う。「善意の第三者」っていう。この文言がスッと入るようになるまでに、法学部生は判例やらなんやら、様々の解釈を勉強する。そうして、「あ~、はいはい、善意の第三者ね」とか、「いいえ! 私は善意の第三者です!」なんて言えるようになる(いねえよ! そんなやつ)。

 

こんなふうに、誰にでもはアクセスできないモノがそこには存在している。
そこへのアクセス許可、それが学問だ。学問を通じて、狭いコミュニティを醸成し、一般人が立ち入れないようにする。


法律なんて、国の重要文章に誰にでもアクセスできたら、国としては都合悪いからね。行政文書が難しいのも同じ理由。
歴史的にみると、「わざと難しくしている」。

そう、法律が難しいのも、行政文書が難しいのも、一部のエリートにだけ国の中央とかかわることができた時代の名残というわけなのです!!

 

本当に名残? 今でも難しいよ?


はい。難しいですね。
でも、ちょっとは変化の片りんもあります。
まず、法律のひらがな化。司法にも民主化の機運が盛り上がり裁判員制度導入と共に、法律への一般人の親しみやすさを向上するために法律がひらがなになりました! 私が学生の頃だったように記憶してます。

 

前は、「善意ノ第三者二対抗スルコトガデキナイ。」だったわけ。
やめてよ、もう☆ って感じ。

 

民主主義はインターネットから。


もちろん、インターネットが普及する前も、民主主義は制度としてあった。
けれど政治のことについて詳しく知る場所や討論する場所、それを通じて自分の政治的な意見を作り上げるのにインターネットは一役も二役も買っている。

 

インターネットが民主主義を加速させているのだ。

そして、文章は簡単になる。誰にでも読めるように。簡単にアクセスできるように。
そう求めているのが、私たちの総意なのだ。
ネット上の投票なんて簡単だしね。PVという形で如実に現れる。批判票なこともあるけれど。難しい言葉で説明されているサイトよりも簡単な文章が乗っているサイトの方がPVも高いはず。

 

国税庁のHPを見れば、相続についてあらかた載っているけど、国税庁のHPで相続を勉強する人はいないね。もっと分かりやすく説明されているマイナビニュースとかのポータルサイト行っちゃうでしょ?

 

分かりやすさが誤読を産む。という指摘について。


分かりやすい言葉が誤読を産むというのは、確かにそういった面はあるのかもしれない。
難しい用語は抽象的な言葉であることも多い。そういった抽象語は、様々な意味を含意しているわけで、それを簡単な言葉にしようとすると、相当色々な言い方をしなければならない羽目に陥る場合も少なくない。そこに「誤読」がそっと忍び寄る。

まあ、分かりやすくするんだったら、量は膨大に増えることは覚悟しないとね。

 

結局、民主主義はいいことなの?


「分かりやすさは民主主義のためですよ」なんて言って、「民主主義はイイコト♡」で思考停止するなら、それでおしまいでいいのかもしれない。


でも、もういっぽすすんで、「民主主義っていいことなのか」についても考えておこう。

 

民主主義は失敗することもある。例えば、ナチス・ヒトラー。彼は民主主義の落とし子だ。
それに、ギリシャの緊縮財政のYes・Noも投票に任せていいのだろうか、という気もする。

 

日本もそうだ。昨年末に行われた衆院解散総選挙。争点は「アベノミクスの是非」だった。アベノミクスの是非って言われたって、多くの人は、「株があがったぜ!だからアベピョン大好き!」とか「給料上がったぜ。あべっちに入れとくか」もしくは、「うちは給料も上がらないし、何がアベノミクスだ!」とか大体そんな感じだったのではないでしょうか。


そもそも著名な学者間でも論争があるアベノミクスの是非なんて国民に訊いても分かるわけないじゃん。
当然、私も分かんないよ!

 

それともなに? 国民は自分の仕事とかもそっちのけで経済を学んで選挙に行くべきだったってこと? 民主主義のコストはかなり高くついちゃうね! 政治のために経済活動がストップしそう・・・。

 

ネット上の民主主義もこれと同じようなことが言えるかもしれない。難しく書かれているけど、正しく公正な文書にはアクセスがなく、非常に偏った不誠実だけど分かりやすくて声が大きいところが勝つかもしれない。そうなると、正しい情報が得難くなる。

 

じゃあ、民主主義ってよくないじゃん?


でも、民主主義がなくなったところを想像してほしい。
独裁者が支配する世界? いい独裁者だったらいいかもしれないけれど、そうじゃない場合には悲惨なことになる。歴史が証明している。

 

難しい文書、きちんとしたところから発行されている文書しかアクセスできないように監視されているネット社会。その情報の偏りは誰にも修正されなくなってしまう。

 

民主主義の一番大きな利点は「否決権」にある。
例えば、自民党がダメだった時には、選挙でその政権を引きずり落とすことができる。
ネットもね、ある文書が良くないものだった場合には、一時的には盛り上がることはあっても、そのうち見向きもされなくなる。ネットユーザーはバカではないから。

 

そういう意味では、「簡単すぎて誤読を招くような文章」とかもそんなに警戒しなくていいんじゃないかなって思うわけです。ダメだったら、ユーザーが選別するよ。「このメディア使えね!」とかね。

 

民主主義よりもいい制度があれば、それを選択すべきだけれども今のところは見当たらない。だから、消去法かもしれないけれど、民主主義が一番いい。それはネットでも同じことかなって思う。

 

なんか色々書き過ぎてまとまりがなくなってしまいましたが、分かりやすい文章の普及は民主主義の普及に一役も二役も買っている。

そして、分かりやすい文書の普及は、民主主義の結果である。という循環が成立しているっていうことで、これは締めたいと思います。

 

読んでくれてありがトン!

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