D'ac

元銀行員。現在:写真撮影・加工。金融ライター・翻訳。子育てられ中。

自分を幸せだと思いたい?

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先ほどの記事で、「幸せって思い込みたい」んでしょ、といったようなコメントがついたので、ちょっとそれについて話をしておきたいと思います。

最近夫とうまくいっていませんというお話。 - D'ac

外的評価高い夫にあなたがしてるんだよね。そういう夫といるアタシ幸せって思いこみたい。そしたら、夫君もそう思い込んできて、オレがお前に合わせてる素敵な旦那様風な態度を多々とる。そこにむかついてんだね。

2015/11/15 01:05

なぜこのような誤解が生じたのかわかりませんが、私の文章の書き方がまずいのでしょう。確かに褒めて伸ばそうとして助長させたところはあります。
ただ、彼の外的評価は彼が外で自分自身で吹聴していることなので、私が関知するところにあらず。

 

とまあ、それはおいておいて。

今回の本題に入ります。

 

私は不幸か。

これにはNoと言えるでしょう。
それは、私が心から「私は幸福だ!」と思っているからではなく、この恵まれた国に住んでいるのに不幸な顔をすることに抵抗があるからです。
家族が重たい病気をすることもなく元気。
生活は苦しいほうかもしれないけれど、なんとかやっていける。

 

本当の不幸は口に出したくないようなところにある。
それが起これば間違いなく私は不幸になる。そして、それは古今東西ありふれた不幸で、多くの人が今までもそしてこれからも苦しんでいることなんだろうけれど、それ以上のそれ以外の不幸はとりあえずないだろうと思う。
私は神経症的なところがあって、いつもその観念に悩まされる。
「私は不幸だ」なんて言うと、自らそれを招き入れそうで怖い。だから、私は不幸ではないだろうと半ば強迫的に思い込んでいるところもある。

 

*ちなみに日本にいたら幸せだろう、難民とかに比べて私たちは幸せじゃないか、という文言はよく使われるけれど、実のところ、そうゆう貧富の差的な不幸観念は比較で生まれるので、あまり意味をなさないと思う。難民より恵まれていたとしても、クラスで一番の貧乏だったら、やはり不幸だと感じる人が多いのではないだろうか。(もちろん全員ではない)

**本当の不幸・・・子どもを失うことでしょう。

 

幸せか?

こういう話をするときはまずもって定義から入らなければならない。
「幸せとはなにか?」
これは非常に難しい問だと考えるし、今すぐにきちんとした定義ができないかもしれない。
とりあえず今のところは以下のようにしておきたい。


「状態に左右されることなく、保持できる心持のこと」


幸せな人は外的な条件に左右されることがない、ということです。

 

「夫が優しいから幸せ」、「夫が冷たいから不幸」と思う人はそもそも「幸せな人」の条件を満たさない。
彼女の幸せは、「夫」という外的条件に左右されるから。

 

世間は違う用法で「幸せ」という言葉を使うように思う。
だから、日々ではそれに合わせている。そこで使われる「幸せ」は正確には「運がいい」だ。
だから「幸せですね」と訊かれたら「幸せですね(運がいいんですね)」と脳内変換して、「はい。幸せです(運が良かったようです)」と答える。
ただそれだけ。


*上で「私は不幸か?」という話をしたけれど、実のところは「私は不運か」の話になっている。

 

そして、実のところ、私は「幸せな人」ではない。
私は大きな嵐はもちろんのこと、小さい波でも揺れてしまう小舟のようなもの。
「幸せな人間」になるためにはまだ鍛錬が足りず、人生経験も足りず。

 

幸せな人になりたいな、と思う。
もちろん運もあれば、尚良し。なんて思ってしまうあたり、やっぱり鍛錬が足りない。
幸せになるためには、そのための資質が必要なのだ。
資質がなければ、どんなに運に恵まれても幸せにはなれない。

 

「あの人、家族にも恵まれて、財産もいっぱいあるのに、いつも不幸そうな顔しているのよね」なんて人がいるのも、そういった事情からなのである。


以上。

 

 

*世の中で「幸せ」と目される人が概してそのように伝えられて「いやいやそんなことないですよ」というのは単なる謙遜だけではないだろうと思われる。
彼らは、他人の目にうつる幸せが「外的条件によってもたらされたものである」ということに自覚的であり、風が吹けば失われるかもしれない脆いものだと実は知っている。だから、他人から「幸せですね」と伝えられても否定したくなる。
もちろん、単なる謙遜の場合もある。