失う恐怖と戦うことができるか。
この間夢をみました。
口に出すのも悲しい夢を。人から「そういうのはね。話しちゃったほうがいいのよ! 正夢にならないから!」と言われたので、話しまくろうと思います。
超ツマラナイと思いますが、子持ちの親であれば、ちょっとは分かってもらえるかな。だといいな。
夢の中で私には子どもがいませんでした。
妊娠はしたものの流産したようです。残念だったね、って言う人たち。私自身も残念だったな。次があるな、なんて思っていて、他の人の妊娠や出産をちょっと羨ましい気持ちで見ていました。
そんなに傷ついてなくて、ちょっと残念…くらいな気持ち。次は友人の子と同級生になるくらいに産めたらいいな、って思っている。
そんなある日、しばらく近寄らなかった部屋に入るんです。なぜか、みなが私がその部屋に足を踏み入れるのを拒む。その日もうっかり入ってしまった。そんな感じでした。
すると部屋の壁一面に女の子の写真が貼ってあるんです。0歳、1歳、2歳。どんどん大きく、可愛くなる女の子。そこで私は気が付くのです。そう、私には娘がいたということ。なぜか失ってしまったということ。悲しみに耐えきれず、その事実を忘れていたということ。私の心を守るために、まわりの人が私にそれを隠していたことを。
私は声にならない声で叫びます。声も殆ど出ない。かすれた声で叫ぶ。そこで何時間も何日も経過して、そして、目を覚ます。
隣で私に蹴りを入れる娘。確かにある息遣い。私の娘。目が覚めてからしばらく涙が止まりませんでした。夢でよかった。夢でよかった。夢でよかった。
起こしてしまったらどうしようと思いながら、何度もしゃくりあげ、鼻をかみました。
親であれば、何度もそういう思いを持つのではないでしょうか。
失ったらどうしよう、と。自由にいろいろさせてやりたい。でも心配で仕方ない、と。
母が今でも弟の心配をしています。出張が多くて遠方に車を出すので、その都度心配だと言っています。弟に言っても鬱陶しがられるだけなので、本人には言わないんですけどね。これぞ、親の心子知らずというやつです。
この子どもを失うかもしれない恐怖と戦う。本当に怖いです。
こんなに生に執着したことはない、そう思います。
死はありふれた不幸で、死においてのみ人は究極的に決定的に平等です。
でも、どうか、彼女が私なしで生きられるようになるまで私が生きられますように。私より先に彼女が失われることがありませんように。
そう願わざるを得ません。
私の親は、私と弟二人を無事成人されることができました。とても幸運なひとたちです。私もそんな幸運な人間になりたい。
そう心から願います。
以上。
追記1:夫に尋ねたら、夫はそういう想像をすることはない、とのこと。
これって、母親だけなのかな?? 母親ってすっごい心配性だよねえ??
追記2:夫に「じゃあ、私がいなくなったら?」と訊くと、「食費がかからなくなるなあ」と。
そんなに食べてない・・・はず。
追記3:恐怖心で防げる事故がある…とは思います。娘が0歳の時に、一度高熱&脱水で死にかけまして(私が)。42度の高熱で倒れたので、他の大人がいないと死んでいました。それ以来、万が一私が倒れた場合に娘が危なくないようにしようと考え、そうしています。私に万一のことがあっても、大丈夫な環境をつくっている・・・はずです。最悪の事態を考えて行動できるのは、やはり、恐怖心がなせる業だと思っています。最悪の想像も無駄ではない…と思う。